高野山は真言宗の本山として比叡山と並ぶ信仰の中心であると共に、全国に散在する寺領の合計は17万石に達する[28]紀伊の一大勢力であった。
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高野山と織田信長の関係悪化は、天正初年の大和宇智郡の領有問題に絡むトラブルに始まる。同8年(1580年)閏3月に荒木村重の残党五名が山内に逃げ込み、これを察知した信長は7月に前田利家・不破光治を使者として高野山へ差し向けたが、高野山側は懐に入った窮鳥はこれを追わずとして五人の引き渡しを拒否した。8月、堺政所の松井友閑配下の足軽32人が山内に入り、荒木残党の捜索と称して乱暴狼藉を働いたため、高野山側によって全員討ち果たされた。その報復として信長は9月21日、諸国の高野聖を捕えるよう命じた。
高野山には全面対決の意思はなく、朝廷に嘆願したり信長にも謝罪の使者を送ったりと和平工作を継続していた。信長も9月21日に宇智郡の領有権を認める朱印状を高野山に与えるなど、直ちに武力行使に踏み切る意思はなかった。だが発端である荒木残党の引き渡しについては最後まで合意に達しなかった。
天正9年(1581年)8月17日、信長は高野聖数百人を安土において処刑した[29]。これを契機に、世間では高野山攻めが行われるという噂が流布するようになる。
戦いの有無と規模に関する考察
『高野春秋編年輯録』によると、10月2日に堀秀政が根来に着陣したのを皮切りに、総大将織田信孝以下岡田重孝、松山庄五郎らが紀ノ川筋に布陣、大和口には筒井順慶・定次父子を配し、高野七口[30]を塞いで総勢十三万七千二百二十余人に達したとされる。これに対し、高野山側は領内の僧兵や地侍に諸国の浪人を加え、合計三万六千余の軍勢を集めたとする。
しかしながら、当時なお多方面に敵を抱えていた織田氏がそれだけの兵力を高野山に投入することができたのかという疑問、また大軍に比してそれを指揮する武将の格が低すぎること、名を挙げられている人物には明らかに当時他方面で働いている者が含まれている[31]ことから、『高野春秋』の記す合戦規模については疑問符をつけざるを得ない。とはいえ、高野攻め自体については各種史料に残る断片的な情報から、全くの虚構とは言えない。高野山側の記録よりもかなり小規模な形で戦いがあったとするのが妥当ではなかろうか[32]。
戦闘経過
高野山側は伊都・那賀・有田郡の領内の武士を総動員し、軍師橋口隼人を中心に「高野七砦」をはじめとする多数の砦を築いた[33]。そして西の麻生津口と北の学文路口を特に重視して、麻生津口に南蓮上院弁仙(遊佐信教の子)、学文路口に花王院快応(畠山昭高の子)を大将として配置した。また学侶方の老練の僧が交替で護摩を焚き、信長降伏の祈祷を行った。
天正9年10月、織田勢は紀ノ川北岸一帯に布陣し、総大将織田信孝[34]は鉢伏山(背山)城(現かつらぎ町)に本陣を構えた。根来衆も織田方として動員された[35]。織田勢と高野勢は紀ノ川を挟んで対峙する形になったが、なお交渉は継続しており、同年中は目立った戦いはなかった。
翌10年1月、信長は松山新介を多和(現橋本市)に派遣する。松山は多和に築城し、2月初頭には盛んに九度山方面へ攻撃を仕掛けた。同月9日、信長は武田攻めに当たって筒井順慶以下大和衆に出陣を促した。同時に、大和衆の一部と河内衆は残留して高野山の抑えとなるよう命じた。14日、高野勢は多和城並びに筒井勢[36]の守る大和口の砦を攻撃。同月末、織田方の岡田重孝らが学文路口の西尾山の砦を襲ったが部将二名を失って撃退される。
3月3日、高野勢五十余名が多和城を夜襲して損害を与えた。10日早朝、織田勢は夜襲の報復として寺尾壇の砦を攻撃、城将医王院が討死するも寄手の損害も大きく撃退された。4月初め、織田信孝は四国攻めの大将に任命されたため転任。同月、織田方の竹田藤内らが麻生津口の飯盛山城(現紀の川市(旧那賀町麻生津)を攻撃した。高野勢は大将南蓮上院弁仙と副将橋口隼人らがこれを防ぎ、竹田ら四将を討ち取り甲首131を挙げる勝利を得た。
6月2日夕刻に至って、高野山に本能寺の変の情報が届く。まもなく寄手は撤退を開始し、高野勢はこれを追撃して打ち破った。高野山は危機を脱し[37]、8月21日には恩賞が行われた[38]。
秀吉の紀州攻め
秀吉の紀州攻め
再建後の根来寺大伝法堂。和泉支配を巡り、根来寺と秀吉は対立した
戦争:安土桃山時代
年月日:天正13年(1585年)3月?4月
場所:和泉及び紀伊各地
結果:羽柴秀吉による紀伊平定
交戦勢力
羽柴秀吉 紀伊国人衆及び有力寺社
指揮官
羽柴秀長、中村一氏、小西行長など 畠山貞政、湯河直春、太田宗正など
戦力
60,000?100,000[39] 総数は不明
損害
7,000?10,000[40] 10,000?15,000以上
羽柴秀吉像
再建岸和田城根来寺は室町時代においては幕府の保護を背景に紀伊・和泉に八か所の荘園を領有し、経済力・武力の両面において強力であった。戦国時代に入ると紀北から河内・和泉南部に至る勢力圏を保持し、寺院城郭を構えてその実力は最盛期を迎えていた。天正3年(1575年)頃の寺内には少なくとも450以上の坊院があり、僧侶など五千人以上が居住していたとみられる[41][42]。また根来衆と通称される強力な僧兵武力を擁し、大量の鉄砲を装備していた。根来寺は信長に対しては一貫して協力しており友好を保っていたが、羽柴秀吉は根来寺の泉南への進出を快く思わず、機会があれば討伐しようともくろんでいた[43][44]。
本能寺の変は雑賀衆内部の力関係も一変させた。天正10年6月3日朝に堺経由で情報がもたらされると、親織田派として幅を利かせていた鈴木孫一はその夜のうちに雑賀から逃亡し[45]、4日早朝には反織田派が蜂起して孫一の館に放火し、さらに残る孫一の与党を攻撃した。
以後雑賀は旧反織田派の土橋氏らによって主導されることとなった。土橋氏は根来寺に泉識坊を建立して一族を送り込んでいた縁もあり、根来寺との協力関係を強めた。また織田氏との戦いでは敵対した宮郷などとも関係を修復し、ここに根来・雑賀が共同で羽柴秀吉に対抗するという構図が生まれた。
前哨戦
天正11年(1583年)、秀吉は蜂屋頼隆を近江に転出させて中村一氏を岸和田城に入れ、紀伊に対する備えとした[46]。一氏の直属兵力は三千ほどで、紀州勢と対峙するには十分でなかった。そのため和泉衆[47]をその与力として付け、合わせて五千弱の兵力を編成した。これに対抗して根来・雑賀衆は中村・沢・田中・積善寺・千石堀(いずれも現貝塚市)に付城を築く。以後、岸和田勢と紀州勢との間で小競り合いが頻発するようになった。根来・雑賀衆は畠山貞政を名目上の盟主に立て、さらに紀南の湯河氏の支援も受けた。
同年7月、顕如は鷺森から貝塚に移った[48]。
同年秋頃から紀州勢の動きが活発になる。10月、一氏は兵力で劣るために正面からの戦いを避け、夜襲で対抗するよう指示を出した。同12年(1584年)1月1日、年明け早々に紀州勢が朝駆けを行う。3日、今度は岸和田勢が紀州側の五か所の付城を攻め、これを守る泉南の地侍らと激戦となった。16日、紀州勢が来援し、五城の城兵と合わせて八千の兵力となり、岸和田を衝こうとした。岸和田勢は六千の軍勢で対抗し、近木川で迎撃して紀州勢を退けた。